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五井野正博士の世界

『雨中の大橋』の中の日本文字の解読@

ゴッホは日本語を知っていた!

 ゴッホは絵の周りに日本語を知っていて日本文字を書き込んでいます。それを解読すると今までのゴッホ像がひっくり返ってしまうだけの真実のゴッホ像が浮かび上がってくるというショッキングな新説が、歌川派門人会の名誉会長である歌川正国画伯によって1994年10月の米国のバーミンハム美術館、95年9月ロシアのエルミタージュ美術館など世界各国で発表され、大きな話題となりました。
 日本での講演は何と「青いポスト二十一」の主催により日本で初めて1999年1月15日に秋田市の秋田ビューホテルで特別に講演をして頂きました。
 その後、日本ではまだ一度も講演や発表が行われていないということで、多くの日本人はまだゴッホのこの事実を知らないと思います。


 ゴッホといえば「ひまわり」とか「アルルのはね橋」が有名ですが、最近「雨中の大橋」というタイトルの1887年のパリ時代に描かれた絵が一般の日本人の間でも知られる様になりました。
 この作品は、現在オランダ・アムステルダムの国立ヴィンセント・ファン・ゴッホ美術館に所蔵されているものです。
 この主題の絵が歌川広重の名所江戸百景の「大橋阿たけの夕立」の浮世絵をそっくりそのまま模写してるという事に研究者ならずとも、一般の人でもお分かりの事と思います。
 しかも絵の周りに書かれている日本文字は、今までゴッホ研究者にとっては特別に関心を引くものではありませんでした。
 もちろん外国人には、この日本文字が理解できないですから当然でしょうが、肝心の日本人にも、この日本文字は一見ゴッホのユーモアやイタズラなどに見えてしまったのではないでしょうか。
 ところが世界でただ一人、この日本文字を科学的に完全に解読した人がいます。
 その人の名は五井野正氏(画号・歌川正国)です。五井野氏は世界的ゴッホ研究家として、また、現存作家としては世界で初めてロシアのエルミタージュ美術館で展覧会を開催した人物として、世界各国から非常に高い評価を受け注目されているのです。
 その五井野氏がゴッホ生誕150周年、浮世絵・切手美術館5周年を記念して今回特別に原稿を寄稿して下さいました。


 フィンセント・ファン・ゴッホはパリ在住の1887年末「デュ・シャレ」のレストランで浮世絵とゴッホの自作の展示会を開いている。
 この展示会の為におそらく『雨中の大橋』『花咲く梅の木』『タンギー親爺の肖像』『花魁』の4枚のジャポネズリの作品が描かれていたと考える。
 「雨中の大橋」(オランダ国立ゴッホ美術館所蔵)は歌川広重画/名所江戸百景シリーズの内の一つ『大はし阿たけの夕立』を忠実に模写し、その周囲を日本文字で取り囲んでいる作品となっている。
 このゴッホ作『雨中の大橋』の作品自体、ゴッホの『向日葵』や『アルルのはね橋』等の著名作品から見ればあまり知られていないもので、初めてこの作品に出会った日本人は「絵(え)っ、ゴッホが描いたの?!」と驚かれるだろう。
 絵柄自体も浮世絵風で、なにやら絵の周りに漢字が書かれ、この漢字はゴッホによって書かれたと知ると、またまた「絵(え)っ、えっ?!」と驚くものである。
 絵の周りに本来、漢字が描かれている事から、日本人のみならず漢字文化圏の国々にとって、この『雨中の大橋』は『向日葵』や『アルルのはね橋』よりも親近感を覚えて良く、世界一ゴッホ好きの日本では、もっと有名作品であっても良さそうである。
 しかし、そうでないのは、この作品が冒頭で述べたように広重画の『大はし阿たけの夕立』の図を忠実に模写されたものだと言われ続けてきた為に、いわゆるゴッホの日本趣味による浮世絵写し、いわば習作と思われて二級以下の評価が下されていたからだ。
 本来ゴッホの日本人研究者が、この絵画の漢字を判読して、世界のゴッホの研究者やゴッホファンに知らせるべきものを、この絵画が浮世絵写しの習作として、周りの漢字も日本趣味による何かの漢字の写しと決めつけた先入観によって、この作品が描かれてから100年以上も経っているのに未だに解読されていないのだ。
 結局、漢字を理解できない人にはもちろん、日本人にとっても判読しにくく、又判読出来ても意味不詳な為に、ゴッホは日本語を知らないと判断して、絵の中の漢字を、単なる日本趣味的な装飾程度に考え、今まで全く判読さえもしてこなかったのであろう。
 例えば、1987年に「向日葵」が53億で落札され、ゴッホブームが始まった翌年の11月「ゴッホが愛した浮世絵」(NHK出版)が出版されたが、その中で高名な美術評論家が、二点の油絵(ゴッホ作『花咲く梅の木』と『雨中の大橋』)に書かれた漢字の可能なかぎりの判読は、外国人には無理としても過去に一度もないのは、日本の専門家として恐るべき怠慢だと、鋭い指摘をしていた事が印象的に残る。
 しかし、その様な専門家でさえ、ゴッホの個々の文字が不正確で、全体の語句が首尾一貫していなく意味不詳であっても、ゴッホの狙いから少しも問題ないと述べてしまうほど、ゴッホの書いた漢字は日本文としての体裁を整えていないのである。
 この様な専門家の意見を聞けば、一般人は当然の様に受け止めてゴッホの書いた漢字を眺めながら、なる程な、と思って偉大なるゴッホの日本趣味、あるいはユーモアとして感じさせて、見る人を楽しい気持ちにさせてくれるだろう。
 ゴッホの書いた漢字を見た日本人の場合、より一層ゴッホに親近感を持つに違いない。
 しかし、私の場合はといえば、少し違っていた。
 何故なら私が編集長をしていた『ふる里村情報』で、ゴッホを含めてマネ、モネ、ロートレック等の印象派達が浮世絵から大きな影響を受けていたと日本文化の再認識と復活を世に提唱したのは、それよりも1年半も前の、昭和62年6月の事だったからである。
 実はこの時、私は既に北斎の隠れた大コレクターであり、印象派に影響を与えた浮世絵の特異ともいうべき研究家でもあった。
 そんなわけで、ゴッホやモネが浮世絵を集めていた事を知ると、その浮世絵コレクションに大変興味を持ち、同等の浮世絵を(版画なので同じ物が何点とある)密かに集め、今では世界で唯一の完成されたゴッホの浮世絵コレクションとして世界の著名な美術館からも認知される程である。
 そうした研究から、意外や意外、実にゴッホは浮世絵を400点以上コレクションしていただけでなく、ゴッホの胸に秘めていた思いを浮世絵の漢字や図を使って絵画に表現していた事が分かってきたのである。
 しかもゴッホの書いた日本文字や浮世絵様式の絵画の謎を知れば知るほど、今までの教科書的なゴッホ像は将に虚像として私の脳裏からもろくも崩れ、代わりに浮世絵から啓示や運命を受けて、叫びながら彼岸の日本に向かって生きていく、真のゴッホ像が浮かび上がってきたのである。
 それは、この『雨中の大橋』の絵画のベースとなった歌川広重作の『大はし阿たけの夕立』がゴッホにとって最初に出会った運命的な浮世絵であった事をゴッホと同棲していたシーンの手紙の中に記述されていたのを見つけた事から、私とゴッホとの時間と空間を飛び越えた長い芸術の旅が始まった。
 つまり、ゴッホが浮世絵を集め、この謎の『雨中の大橋』を描いた大きな原因は、オランダのハーグで出会った娼婦クラシーナ・マリア・ホールニック、通称シーンからゴッホにもたらされた、たった一枚の歌川派のクレポン(浮世絵を縮小した通称、縮緬絵)だったのである。
 その事がゴッホのみならず、私をもして驚かせ、結局ゴッホの浮世絵コレクションの完全なる再現だけに留まらず、ゴッホの絵画と浮世絵を継承する画家として江戸最大の浮世絵師集団であった歌川派の再興と、ゴッホ絵画の真実を世に示す使命をゴッホから与えられてしまったのである。
 ゴーギャンに宛てたシーンの手紙から、
「日本の絵(クレポン)を最初にフィンセントに見せたのは私です…(中略)フィンセントは私が見せた浮世絵を殴られたような顔で見つめていました。その絵は大きな川に木橋が架かり、傘をさした数人の日本人が渡っていました。空からは針のように夕暮れの雨が降っていて黒色です。雨が降っていても色が一杯で明るいのです。」 この様に表現された浮世絵の図が、ゴッホの浮世絵コレクション図録(ゴッホ美術館所蔵)の中で当てはまるのは、歌川広重作/名所江戸百景の内の『大はし阿たけの夕立』1枚だけである。
 ちなみにゴッホ美術館に所蔵されている広重作の『大はし阿たけの夕立』の浮世絵は、後世に美術館に寄贈されたもので、ゴッホが実際に所蔵していた物はクレポン(縮緬図)であって、その所在は未だに不明である。
 そしてゴッホは、この絵を見て「…何という色だ。何という線だ。」と絶句したという事がシーンの手紙に書かれている。 さらにシーンは「あんたもこういう色を使えばいいじゃないの」と言ったが、「絵の具が高いんだ」とゴッホが答えているのだ。
 つまりゴッホはこの浮世絵をきっかけとして弟テオの資金支援を得て、本格的に油絵の画家の道を歩む事になる。
 それ以前は牧師の道を歩んでいたが、教会とケイとの恋に挫折して画家の道を選んだもののゴッホの書簡からも知れる様に、単なる素描画を描いていたに過ぎなかった。
 実際にゴッホがシーンと出会う1882年1月以前の絵はほとんどが暗い素描画であり、色彩が明るく鮮やかになるのはシーンと同棲してからの3月以降の水彩画、夏以降の油絵画となる。
 そしてシーンと別れた1?2年後の1885年頃からたくさんのクレポンを壁に貼ったり、後に浮世絵をコレクションし始めた事が書簡からも知る事が出来る。
「ぼくの画室はそう具合悪くない。ことに、小さな日本の版画を壁にいっぱいピンで止めたから、大いに楽しい」(書簡437)
 ゴッホが小さな日本版画と言ったのは、クレポンの事である。
浮世絵を縦横に半分くらいに縮めると色彩が強くなり、絵柄も立体的になって油絵風の浮世絵になる。
 外国人のおみやげ用に作られた物だが、浮世絵と比べて美術的評価や価格も下がる。
つまり1885年のアントウェルペン時代に収集していた日本版画がクレポンだった事から、その3年前にシーンから手に入れた日本版画が普通の浮世絵ではなく、クレポンだったことを、この書簡が裏付けている。
 そして、翌年の1886年3月に弟テオを頼ってパリに移り、やがてタンギー爺さんや浮世絵商のサミエル・ビング達と出会い、浮世絵を通してセザンヌやロートレック等の印象派の画家達と出会う。
 つまりシーンがもたらした、たった1枚のクレポンの浮世絵がゴッホの人生や運命、思想的な面までも大きな影響を与えてくれた事に対し、この『雨中の大橋』の絵画に留め、浮世絵と共に展示したというのがゴッホの心境だと思うのである。
 つまり、『大はし阿たけの夕立』の図を油絵で描き、その周りに日本文を書いているが、実はこの日本文の解読無くして、ゴッホの実像を知る事もゴッホの心の真髄を知る事も不可能であるといっても過言ではないのだ。
 つまり、結論を先に言えば、ゴッホは日本語を知っていたのだ!!
 知っていたからこそ日本文で絵の真意を説明していたのである。(次号に続く)

              
五井野 正 (ごいの ただし) 科学者・芸術家
ウィッピー総合研究所 所長 / ロシア国立芸術アカデミー名誉正会員
スペイン王立薬学アカデミー会員 / アルメニア国立科学アカデミー会員
フランス芸術文化勲章受章
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